酒田港のあゆみ
更新日:2020年10月7日
藩政時代およびそれ以前
「資料提供:本間美術館」
酒田の町づくりは古く、「坂田」あるいは「砂潟」と呼ばれ、和銅5年(712年)頃、大和朝廷が出羽国を建て蝦夷を平定していた頃にさかのぼり、延歴23年(804年)頃は、出羽文化の中心として栄えました。
当時は、河口を利用した小規模なものでしたが、寛文12年(1672年)河村瑞賢が西回り航路を開拓してから、物資の交易で港が繁盛し、日本屈指の港となりました。
明治時代
最上川の相次ぐ出水による流送土砂で河口が定まらず、船舶も帆船から汽船の時代になり、船型も大型化したため港勢に衰えを見せましたが、明治17年に政府の治山治水事業による最上川の改修によって河口の安定と流路の整正がはかられた結果、一時利用度は持ちなおしました。しかし、奥羽本線等の開通により、再び港は衰えることとなりました。
大正時代
陸羽西線(大正3年)および羽越本線(大正13年)などの鉄道が開通したことで陸上交通が盛んになり、港の衰えが目立ちましたが、大正6年に内務省が洪水対策として最上川の改修工事に着手し、川と港湾を分離する画期的な背割堤を築堤したことで、酒田港は近代港湾に生まれ変わりました。
昭和時代
昭和48年頃の酒田北港
酒田港は地理的、産業的条件から交通拠点としての重要性が認識され、昭和4年に第二種重要港湾となりました。
戦後の昭和23年には開港場の指定を受け、26年港湾法施行とともに重要港湾となりました。
酒田市も29年には隣接する町村を合併して港湾都市としての形態を整えました。
更に本港地区の取扱貨物量の増大と新たな工業用地を確保するため、45年から掘込み式の北港建設に着手し、49年の第1船の入港をもって開港となりました。
現在
現在の酒田港
平成4年に中国黒龍江省ハルビンから松花江、アムール川を下り、日本海を経て酒田港に至る「東方水上シルクロード」が、7年には韓国釜山港との定期コンテナ航路がそれぞれ開設されました。
12年には多目的国際ターミナルが供用開始され、環日本海圏の経済交流を支える物流拠点港として機能する一方、14年には大規模震災時に防災拠点となる耐震強化岸壁も完成しました。
また、15年には総合静脈物流拠点港(リサイクルポート)に指定され、従来から行われていたリサイクル事業に加え、新たに遊技機器、変圧器、廃自動車などのリサイクル企業の進出や、風力発電所の建設などが進み、循環型社会の構築に寄与しています。